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日々の破片

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2013-08-19

_ 東劇でメトLiveビューイング

皇帝ティートの慈悲とドンカルロ。

皇帝ティートの慈悲は以前聞いた時は、せいぜい後宮からの逃走の前あたりの作品だと思っていたのもあって、えらく退屈な、いかにもモーツァルトの音楽だなぁという印象だったのだが、今回映画館の椅子に釘付けされて聞いていると、歌に対してうまい具合に木管が入るので、おや、これは実は良い曲だなとちょっぴり姿勢を正した。

すると、幕間で最晩年(どころか最後)のオペラだという説明を指揮者がするもので、思わず納得してしまった。さらにクラリネットだと思って聴いていた(理由はわからないが、モーツァルトのクラリネットに外れはないからだ)木管が、実はバセットホルンという楽器だとわかり、元皇女の歌の掛け合いとかなるほどうまいものだ(でもモーツァルトだが)。

字幕のおかげでまともに筋を追えたが、最後にティートが、反逆者で罪は明らか、正しい刑の執行は治世の要諦、しかしティートが皇帝である限り、ティートはティートとして振る舞う。帝国が厳格な治世を求めるのであれば、ティートを退けよ! と歌うところはなかなかに感動的ですらあった。それをしてはならないというのが韓非子で、そちらが正しいとおれは考えているにしても、ティートがティートとしてすべてを許すのはそれはそれで良いことだ。

というわけで、想像している以上におもしろかった。むしろ、ダポンテ3部作より好きかも知れない。

で、ドンカルロになるのだが、演出が異様に抽象化された舞台美術を使うせいで、実にグロテスクな代物に見える。

エリザベートがポプラフスカヤだが、顔の輪郭が目立たないので美しく見えるのは良いとしても、ドンカルロがアラーニャで鼻息フムフムゴリラみたいなのが、キーンリーサイドの貧相なロドリーゴと顔を近づけあって友情賛歌を歌いだすと、どうにも大顔病が猛威を振るう世界に見えてくるのだ。背景がすべて簡素なところに、顔がどでかくてスタイルが悪い歌手が右往左往するので、違和感が半端ない。一人一人は声も歌も良いのだが。すべての場面転換で、ドンカルロが幕の手前に取り残される(最後は死んだロドリーゴと取り残される)。

最後はカルロ5世に連れていかれるのではなく、殺されてフィリポ2世の脇で死んだままとなる。

この演出では、すべての登場人物が絶望的に孤立している状態を見事に表現しているといえるのだが、それは普通に物語を観ていればわかることで、演出で強調する必要はまったくない。そのために、とにかくグロテスクで気分が悪い。むしろ、一人目が見えない大審問官がもっとも開明的にすら観えてくる。ドンカルロとロドリーゴの友情ですら、絶望的にお互いを理解していないことを示す(すぐにロドリーゴがドンカルロを突き放す仕草が入る)。

それにしてもキーンリーサイドの凄惨な顔つきはドンジョヴァンニやテンペストでは気高くみえたし、貧相さはパパゲーノでは唯一のまともな人間っぷりを示したのに、ロドリーゴを演じると違和感しか残らない。不思議なものだ。

指揮のネゼ=セガンは、フランス系カナダ人ということだが、実にテンポが良く好きな音楽だった。

問題は、アンナ・スミルノヴァが美しくもなんともない太目のおばさんなことで(同じく客観的には太目なおばさんのフリットリやネトレプコは舞台に立つとディーバとして君臨してしまうのが、オペラ歌手としての力量の差ということなのかなぁ)、わたしの美貌が諸悪の根源は歌なのでまあ許せるとしても、ロドリーゴがエリザベートにカルロの伝言を伝えるところで、自分のことだと勘違いするところが爆笑ものになってしまうのがひどすぎる。

が、ヴェルディの音楽は本当に素晴らしい(ネゼセガンが良いのだろう)。

ただし、2作品全体を通して、何が一番印象的かと言えば、予告編で流れるザンドナーイのフランチェスカダリミニのチャンチャーチャララチャンチャンチャというメロディだ(ところが、実際のフランチェスカダリミニを観ると、このおそろしく陶酔的で通俗的で、つまり至高のメロディの饗宴が味わえるのは、3幕の最後の50秒間だけで、残りはすべて印象派の影響下にある透明な、音色は際立つがメロディらしいメロディに乏しいオペラだという衝撃が待っていてびっくりすることになったわけだが。この予告編を作った人間はフランチェスカダリミニを知り抜いている)。

_ 問題はstring-boolの変換ではない

なんか、三項演算子を卒業しましょう!を読んで腹が立ってきた。

おそらく書いた人は、型変換をメソッドに分離するということを説明したかったのだろう(「その処理が隠ぺいされているため、ストレスなくコーディングすることができます」と書いている)。それは良い。

が、例がひどすぎる。

以下の前提は受け入れる。

・既存の各行にTRUEかFALSEと記述されたテキストファイルがある(雰囲気からDOSの頃からずっと使っているのだろう。プログラムは変わっても設定ファイル(データファイル)を変えないというのは、良いことかも知れない)。

サンプルの問題は、ループを使っていない点だ。

enum Data
{
    Data1,
    Data2,
    ...
    Data8,
    //
    CountOfData
}
readonly bool[] data = new bool[(int)Data.CountOfData];
...
var settings[] = // filesって変数名も気になる
    My.Computer.Filesystem.ReadAllText(@".\setting.txt").Split("\r\n");
if (settings.Length != data.Length)
{
    throw new ArgumentException(string.Format("bad file: expected {0} but {1}", data.Length, settings.Length));
}
for (var i = 0; i < data.Length; i++)
{
    data[i] = settings[i] == "TRUE"; // 条件演算子使う必要ないじゃん
}
...
if (isData(Data.Data2))
{
    ...
}
...
bool isData(Data nameOfData)
{
    return data[(int)nameOfData];
}
void setData(Data nameOfData, bool f)
{
    data[(int)nameOfData] = f;
}

こんな感じ。


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